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頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

「ルビーの指環」とはいったいなんだったのか【寺尾聰】

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 7月16日は、作詞家・松本隆の誕生日なのだとか。松本隆といえば、作曲家・筒美京平とのコンビによる一連の太田裕美の歌もいいが、忘れてはならないのが、あの「ルビーの指環」を作詞したということである。

 

 「ルビーの指環」は、昭和56年2月5日に発売され、徐々に売り上げを伸ばし、3月30日にオリコン1位を獲得する。あのTBSの歌番組「ザ・ベストテン」でも12週連続1位という番組最長記録を樹立する。

 

 それどころか、「ルビーの指環」の前に発表された「SHADOW CITY」「出航 SASURAI」も相乗効果でヒットし、ザ・ベストテンで3曲同時にランクインしたとなどということもあった。

 



 

 当時、子ども心に、ブラウン管に映るサングラスをかけた寺尾をみて、「カッコつけちゃってさあ、でも『おくさまは18歳』の海沼先生じゃん!」とか思ったものだ。当時再放送をやっていて、ドジで優しい笑顔の先生というイメージだったのである。

 

 「ルビーの指環」は最初、事務所の専務から「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」といわれていたそうだが、たしかにお経に聴こえないこともない。むしろお経みたいなところが、よかったのかもしれない。

 

 つまるところ寺尾の歌声は鼻にかかっていて、これがまた耳に心地よいのである。特に濁音のときがいいのであるが、気のせいだろうか。また「ルビーの指環」の歌詞は濁点が多い。

 

 これは作詞した松本が、寺尾の歌声を聴いて、濁音のときの声がいいぞということで、わざと歌詞に濁点のある字を増やしたのではないだろうか。そんな気がするのだ。などと素人が勝手なことを申してみた。

 

 結局寺尾と「ルビーの指環」は、この年の日本レコード大賞を獲得し、紅白歌合戦にも出場したのだが、翌年以降は新たな曲でベストテンにランクインすることはなく、俳優に戻っていった。その後の活躍はいうまでもない。

 

今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。