KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ケンタッキーフライドチキンにおけるセンスの悪い食べ方【「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」村瀬秀信】

 そういわれてみればそうだ。”気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている”のである。著者ほどは食べてはいないのだが、なにかというと、チェーン店で食べているのだ。

 

雑誌『散歩の達人』の連載エッセイ、待望の文庫化!

収録されているのは、吉野家、ロイヤルホスト、CoCo壱番屋、びっくりドンキー、餃子の王将、シェーキーズ、とんかつ和幸、サイゼリヤ、かっぱ寿司、レッドロブスター、牛角、マクドナルド、蒙古タンメン中本、築地銀だこ、日高屋、バーミヤン、すき屋、てんや、リンガーハット等、おなじみのチェーン店ばかり。

著者独自の視点から、各店の魅力と栄枯盛衰を綴る。

 

 この本にも収録されているチェーン店に、「ケンタッキーフライドチキン」がある。ここもそうだが、たいがいのファーストフード店には、僕のばあい”空間”を買いに行っているのだ。 

 

 ちょっとひとやすみなどして、なにか食べながら本を読みたいなとかという場合に利用する。テイクアウトしてまでフライドチキンを食べたいかというと、そうは思わない。ひとやすみするには値段も手ごろだし、勝手知ったる味だから利用するのだ。

 

最たるものはクリスマスにケンタッキーを食べるという習慣だろう。今や正月の雑煮、七五三の千歳飴にも及ばないものの、十五夜の団子ぐらいなら勝てそうなぐらいの日本の慣例食に成長してきたと言っていいだろう。

 

 だからこの感覚がわからない。たしかに十五夜の団子には勝っているのだろうけれども。クリスマスイブのころになると、ケンタッキーフライドチキンにはえらい行列ができる。だがその並ぶ時間を、なにか他に使えないのかとすら感じるのだ。

 

 僕が遭遇したいちばんセンスが悪いと感じたケンタッキーフライドチキンの食べ方。何年か前、桜の花が咲き誇るころ、横浜の掃部山公園に行ったとき、どこかの会社かなんかの団体の花見客が宅配ピザと缶チューハイなんかと一緒に食べていたのだ。

 

 もちろん花見のやり方など自由なのであるが、あれではきれいな桜も台無しというものだ。外国人もいたので、かれらに合わせたのであろう。けれども外国人諸氏も、桜の木の下で、ほんとうにフライドチキンやピザなど食べたかったのであろうか。疑問だ。 

 

 余談が続いてしまったが、この本の著者は僕とほぼ同世代なので、家族と行ったファミレスの思い出がリンクする。最後の章の「ファミール」のところなど、うなずきながら読んでいた。

 

 40を過ぎたヒトのなかには、家族というかけがえのない存在の欠片を失うヒトが多々いる。著者も僕もそのなかの一人だ。もちろんその欠片を埋めるがごとく、新しい家族や親せきもまた現れるのだが。その団らんのなかでよく、昔に思いをはせている。 

 

 

 

 

 

 

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。

 

 

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