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頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

文壇っていうのは場外乱闘があるからいいのだ【芥川賞】

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 小説なんてしばらく読んでいない。学生時代はそれなりに読んだものだが、30過ぎてからは、おそらく数冊程度しか読んでいない。丸山健二が好きなので、カレの小説は読むが、それ以外の作家はまったくといっていいほど読まない。

 

 個人的見解ではあるが、小説というものは、自我が形成される前の学生が読めばいいとすら思っている。社会人になったらあとは自分の教養をつけるための本を読むべきなのだ。ついでにいうと、ビジネス書しか読まない社会人というのもどうかと。

 

 すこし前置きが長くなったが、先日の芥川賞の際の選考委員の発言が、物議をかもしているという。最初みたとき誰だろうと思ったが宮本輝だった。あああの司会者だった・・・ってそれは宮田輝だ。まあ世間の認知度など、そのようなものであろう。

 

「真ん中の子どもたち」という作品で同賞にノミネートされた台湾生まれの作家・温又柔(おん・ゆうじゅう)氏。作品は台湾出身の母と日本人の父を持つ若者を描き、「母語」をテーマにした作品だが、残念ながら受賞はならず。そして、8月10日の「文藝春秋」に掲載された宮本氏の選評に、温氏が怒りをあらわにしたということだ。
「これは、当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」(「文藝春秋」2017年9月号より)

芥川賞「宮本輝選評ブチ切れ作家」に同調は極少!? 「賞の価値なし」は又吉直樹の影響か | ギャンブルジャーナル | ビジネスジャーナル

 

 学生のころ宮本輝の小説も読んだことがあるが、はっきりいって退屈であった。それこそ”対岸の火事”である。というか”対岸の狼煙(のろし)”といった方がよろしいか。小説などそのようなものである。このようなものに、いちいち怒っていたらキリがない。

 

 とはいっても一つひっかかるのが、「言われたくないなら、面白い小説を書けばいい」という意見があることだ。この手のヤツというのがいちばん良識ぶった物言いで、はっきりいってつまらない。面白い小説ってなんなのだ。

 

 芥川賞などというのは、それこそ第一回のころから場外乱闘をやっていたではないか。おもに太宰治のことだけれども。こういう小説とは別なところでの争いこそが、文学の世界における華ではなかったか。

 

 だから温又柔さんの怒りの表明は、あってしかるべきものなのだ。いまはTwitterという便利な手段があるのだから、どんどんやればいい。だいたい宮本輝って歳いくつだ。もう70か。このような爺さんがはたして選考委員として必要なのかが疑問だ。

 

 このような年寄りが、大衆文学を対象とした直木賞ならまだしも、純文学の新人のための、なおかつ35で亡くなった芥川龍之介の名を冠した賞の選考委員をつとめているというのが、僕には不思議でならないのだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。