KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

友だちと知人

 きのう職場のヒトとハナシをしていたんだ。で、そのヒトのSNSの記事について、お友だち多いんですねって言ったら、「多くないですよ」って返されたのだけれど、かんがえてみたら、友だちいない自分基準でいっていたなと。

 

  そもそも友だちっていうのが、どこまでいけば友だちなのかがわからないんだ。レベルいくつまでいけば友だちに昇格できるのだろう。ニンゲンどうしのことだから、それぞれに基準があるのだろうね。

 

 僕はかんたんにあのヒトは友だちだとヒトにいうことができないんだ。相手がそう思ってなければ失礼であるし、それで思われてないことを知ってしまったら、じぶんにもけっこうダメージくるし。なので友だちはほとんどいないことにしている。

 

 そうしたらそうしたで、こんどは友だちとおもっていたのに・・・というヒトもでてくるかもしれない。なかなかに面倒くさいのだが。もしいままで僕のことを友だちだと思っていたヒトは、こんどこっそり教えてください。あなたは僕の友だちです。たぶんいねえな。

 

 他人にそのヒトとの関係を伝えるときに知人というコトバは便利だ。でもよくフラれるときの常套句で、「友だちでおねがいします」なんていうけど、「知人でおねがいします」なんて言われたらもっとヘコむね。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。