KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

大場政夫

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 昭和48年に生まれた僕が、その年の事件・現象などを取り上げてみる新企画。第一回目は”ヒト”を取り上げてみたい。記事名もシンプルに、そのヒトの名前だけにしてみた。みなさんは知っているだろうか。

 

 僕が生まれたのが昭和48年1月12日で、この方が亡くなったのが、昭和48年の1月25日。なのでもちろんリアルタイムでカレをみた記憶はない。ただ小学校高学年のころから、プロレスや相撲そしてボクシングをテレビで観るのが大好きな少年だった。

 

 ボクシングというのは、いつ終わるかはわからない。もちろんテレビは最終ラウンドの時間まで枠をとる。けれども世界戦であっても、1ラウンドで決着がついてしまうことだってある。

 

 そうなるとどうやったって時間が余る。どうするかというと、昔の試合の映像をみて当時を振り返るなどということもやるわけだ。そこでカレが登場したのである。言い忘れていたがカレはプロボクシングの世界チャンピョンなのであった。

 

 

 余った時間を埋める昔の映像なのに、目が釘付けになる。こんな劇的な結末はそうそうお目にはかかれない。第1ラウンドでダウンを奪われてフラフラになったというのに(この時に捻挫もしたのだとか)最終ラウンドで3回ダウンを奪い勝つだなんて。

 

 ボクシングというのは、おのれの拳と精神力で戦うシンプルな格闘技である。新しい技とかが生まれるわけではない。そういう意味での”進歩”というものはない。けれども戦うことの普遍性のようなものを、まざまざと見せつけられる。

 

 だからこそ昔の試合だから、いまよりも劣るということはない。ただ光るのはいつの時代も、リングで戦うボクサーの人間性そのもの。ときには負けた選手に己の人生を重ね合わせ、涙することもある。

 

 …どうも長くなりそうなので、続きは次回に。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。