KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

死刑

 

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 3月もなかばということで(地下鉄サリン事件がおきたのは95年3月20日)前回の記事で麻原彰晃とオウム真理教について書いたら、そのあとに一連の死刑囚にかんするニュースが報じられた。

 

オウム真理教による一連の事件で、東京拘置所に収容されていた死刑囚13人について、法務省は14日、麻原彰晃=本名・松本智津夫=死刑囚(63)を除く7人の他の拘置所への移送を始めた。
一連の事件の刑事裁判は今年1月に終結しており、法務省は執行の時期を慎重に検討しているとみられる。

【オウム死刑囚】移送7人は新実智光、林泰男、早川紀代秀、井上嘉浩、岡崎一明、横山真人、中川智正の各死刑囚(1/2ページ) - 産経ニュース

 

 死刑というのはなんのためにあるのだろうか。いわゆる社会における”みせしめ”のためであろうか。それとも国家による、被害者遺族のための”かたき討ち代行”であろうか。

 

 どちらにせよ死刑は犯罪の抑止力にはならないとおもうし、死刑そのものに反対である。そのかわり終身刑があればいい。死刑が決まったとしても、執行されるまでに再審請求を出し続けられる現行の制度なら、反省の暇もなく償いにはならないからだ。

 

 そのかわり終身刑ならば、うごかぬ証拠があれば、再審請求そのものを認めない。独房に閉じ込めて、とことん自分の犯した罪を、死ぬまで悔いてもらうようにする。死刑になりたいから犯罪を犯すニンゲンだっている時代だ。あっさりとは死なせない。

 

 それでもそんなの認めない。死刑制度は必要だというヒトが多数なのであれば、死刑制度においてこれを社会はやってほしい。13階段をあがる死刑囚の映像を、”公共放送”NHKのニュースでやるのだ。

 

 執行の瞬間を映す必要はない。ただ階段をあがる過程のみを映し出す。麻原はどういう反応をしめすだろうか。”そのときだけ正気”になって暴れるだろうか。それとも命乞いでもするだろうか。

 

 これなら”みせしめ”にも””かたきうち”にもなる。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。