KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

孤独はなろうとしなくてもいずれ感じるもの

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2018年4月9日 藤沢にて

 【あらすじ】

 少しお休みをいただいたあとの復帰第一弾記事。今後このブログの、肝のひとつになるであろう”孤独”というテーマについて考えてみた。

 

 

 

 

 ヒトは生きているかぎり、完全な孤独にはなりえない。つきつめてゆけば、他者のかかわりによって生かされているのだと気づかされる。一般に語られている”孤独”というものは、ほんとうの意味での”孤独”ではない。

 

 いわば孤独”感”なのである。なので私がここでふれる”孤独”というのも、そういうことなのだということで了解をいただきたい。われわれニンゲンは孤独というものをナメている動物なのかもしれない。

 

 ヒトからの好意には素直に甘えるべきである。それにたいする感謝を持つのを忘れなければいいのだ。またヒトからの注意も素直に聞くべきだ。若いうちはとくに。私のような中年男になってくると、どちらのコトバもかけてもらえなくなるものだから。

 

 なので自分からすすんで”孤独”になろうとしなくてもいい。ヒトがいろいろやってくれている、またしようとしてくれているのに、カベをつくって自分は孤独だと表明してしまうのは傲慢な思考である。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。