【前回の続き】
小さいころは、千葉市の埋め立て地にある団地に住んでいた。この動画の17分あたりにあるようなところだ。昭和53年の千葉市といえば、人口の増加が右肩上がりで、団地がどんどんと建てられたころである。
そんなところであったから、下水処理場もとうぜんあったし、水洗トイレがあたりまえだと思っていた。ボットン便所の存在は知っていたが、それは田舎の人里はなれたキャンプ場にある特別なものであった。
その考えが覆ったのが、昭和末期の高校時代。大網白里の高校に進学したのだが、千葉市から外房線に乗って通学していると、車窓からみえる風景がだんだんと緑豊かになって、田んぼや畑が多くなっていく。
学校の近くの友人宅に遊びにいってトイレを借りると、そこにはボットン便所があった。いまはどうなっているかわからないけれど、昭和末期の大網白里には、たしかにあったのだ。しかもトイレットペーパーではなく便所紙で、便器は和式。
便所紙が編み籠に入っている。はじめてみるロールじゃない便所紙。これにはカルチャーショックをうけた。友人の家は農家であったから、これが普通なのである。し尿も畑にまいていたであろう。
むしろこちらが普通ではないのである。団地に住んでいるヤツなんて異邦人だったのだ。いまとこれからの未来のことではなく、むかしから連綿と続いてきた歴史からみれば、たんなる異邦人にすぎなかったのだ。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。