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頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

それでもLGBTは痴漢と同列だ

 自民党本部前で議員辞職を求める”大規模”なデモも行われるなど反響を呼んだ『新潮45』の杉田水脈衆院議員の寄稿「LGBT支援の度が過ぎる」だが、これを擁護した文芸評論家・小川榮太郎氏の寄稿が一部で話題になっている。

 

「ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである(中略)彼ら(編集部注:痴漢症候群)の触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」

 

確かに、小川氏が寄稿で展開した主張の本筋は、「痴漢の触る権利を保障すべき」という内容ではない。LGBTが生き辛いなら自身で痴漢を止めることができない男性もまた生き辛いだろうと、痴漢を例に出したのは小川氏なりの皮肉の表現かもしれない。

しかしだとしても、これこそ「度が過ぎる」だろう。そもそも、LGBTと、犯罪である痴漢を同列に扱い論じるのは無理がある。

「そう読める人達の頭が大丈夫でない」新潮45の炎上に寄稿者が言及 - ライブドアニュース

 

  皮肉もクソもない。論旨はいたってイージーなものである。痴漢が現れて行為におよぶことは、された方にとっては不愉快なものである。小川氏にとってLGBTが現れて多様性を主張するのは、痴漢をされる女性と同じく不愉快なのだ。

 

 犯罪である痴漢を同列にあつかうのは無理があるといえども、不愉快であるということにおいては同列なのである。多かれ少なかれ程度の違いはあれど、LGBTという少数派の存在が不愉快であるという感情。

 

 それは声を出さずとも多くのヒトが持っている感情なのだ。日本の”声を出さない多くのヒト”すなわちサイレントマジョリティーといわれるヒトは、思想というものが大嫌いである。

 

 そしてLGBTの権利問題について大声をあげるのは、そのサイレントマジョリティーが嫌う”思想を持つヒトビト”なのである。声が大きいと目立ちはするけれども、しょせんは少数派なので実効力はない。それを証拠に杉田水脈議員はいまも活動している。

 

 少数派にたいする、攻撃まではしないまでも冷たい視線を送る多数派の目と、多くの日本人たちが持つ思想にたいする嫌悪。これらがあるかぎりLGBTなどのマイノリティの問題は、いつまでも社会にくすぶり続けるであろう。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。