KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

人身事故についてひとり考えた

 私は性格が悪いという以前に、頭の中にあるヒューズみたいなものがすでに何本か飛んでいるようだ。先天的なものなのか、後天的なものなのか、どちらもなのか、それはわからない。

 

 現在、大学の講義を夜にとっていて、週2回辻堂から市ヶ谷まで電車通学している。今日は帰りに人身事故があって電車が止まってしまったのだが、遭遇するたびに納得がいかないことがある。

 

 以前それをTwitterでつぶやいたときに、とあるフォロワーさんから、そのようにしたところでどうするのかと言われたことがあるのだが、やはり今日は今日とて納得がいかなかった。

 

何に納得がいかないのか

 人身事故で止まるのは仕方がないが、どのような原因においてどういうことが起こったのか、その理由を教えてくれないのだ。ただ人身事故で止まりますだけ。説明が足りないのである。

 

 人身事故もそうだが、線路立ち入りについても同じだ。こっちは貴重な時間を奪われているのに、「人身事故(線路立ち入り)が発生した関係で」だけで足止めをくらうのがどうにも納得がいかない。

 

 「誤って転落して、その救護のため」であったら、まったくドジだな、でも無事でよかったと、「ホームからお客様が飛び降りたため」であったら、ああ世を儚んでそういう行為に及んでしまったのかとそれぞれ心の整理がつけられる。

 

 

 線路に人が立ち入りパターンで、この動画のように「品川駅で東大の受験に失敗した方が線路に立ち入って暴れたため」というアナウンスの場合。それはそれでモヤっとしそうではあるが。

 

 私はみなさんではないので、こういう考え方が「わかる気もする」なのか「それおかしい」なのかはわかりえないが、こういう頭の中にある故障の可能性がある部分を晒すのも、それはそれで、スッキリするのであった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。