KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

仮想現実であれば殺してもいいか


 ”仮想現実”とはなんだろう。ほんとうに”仮想現実”というのは、”現実”とはっきり区分けされているものなのだろうか。”現実”に殺さなければ”仮想現実”でいくら殺しても、ほんとうに大丈夫なのだろうか。

 

 先に言ってしまえば、私は”大丈夫じゃない”派なのであるが。だからといって「お人形を売るな」とはいわない。ただちょっとこれ行きすぎじゃないと感じたら、聞く耳を持つから意見もいわせてくれということで。

 

 いま世の中にはこういったゲームがある。ヒトを殺したり、(戦略のために)自殺して復活したり、なおかつ通信機能を使って、現実のヒト相手にコミュニケーションがとれたりもする。

 

 私は自衛隊にいたので、”ヒトを殺す”訓練もやったことがあるが、体をかなり使うし、訓練であるから苦痛のみで楽しいという感覚もなかった。だからサバイバルゲームなども好き好んでやろうと思わない。

 

 このようなインターネットのゲームの場合、頭は使うが、体はさほど使わない。ヒトを痛めつける行為そのものが簡単になり、感覚がマヒしそうではないか。小学生がやっているのをみると心配になる。

 

 だから現実世界で実際に殺さなければいいというだけではない気がする。現実に殺す殺さないという二元論ではなく、多元論なものなのだ。たとえば自分が殺す殺さないだけでなく他者が殺す殺さない、他者が殺される殺されないということに現実でなにを思うかみたいなところだ。

 

 他者が自分の代わりに戦争などで死んだ場合、それを当然だと思うようなら、それは間接的な殺人である。戦争やテロにおけるヒトの死は、現場における殺す殺されるの関係性だけで成り立つものではないからだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。