KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

フィフィさんイスラム教徒の暴力行為を開き直らないでほしい

 

 先日、シリアで拘束されていた、ジャーナリストの安田純平氏が解放された。このニュース自体の感想としては、単純に生きて帰ることができてよかったというぐらいである。日本人として。

 

 問題は外野だ。自己責任だというヒトと、いやそうじゃないというヒトと、両方いる。まあだいたい政治思想の立ち位置で分かれているようだが、私はどちらにも与しない。

 

 だいたい両翼の立場とも、これが抜けている。一番悪いのはイスラム教徒なのだということを。憎しんでもしかたないというが、そういうヒトにとって憎しみの反対は結局、忘却なのである。

 

 だから私はイスラム教を憎み、一部の教徒らによって日本人が殺害された事件を忘れないようにしている。イスラム教徒の友人・知人はいるし、彼らを個人的に嫌ったり、もちろん暴力的な行為はしようと思わない。ただ私の内向的な部分でイスラム教という宗教を憎んでいる。

 

 そしてフィフィさんのこういう安田さん個人への攻撃は、イスラム教徒による責任回避であるとしか感じないし、後ろで援護射撃を入れている高須クリニック高須克弥院長についても、己の政治スタンスを誇示するために、安田さんを利用しているとしか感じない。

 

 私個人がなぜここまでイスラム教を憎いと思い、無神論者になり、大学で哲学や宗教を学ぶことにしたのか。あるきっかけがあったのだが、この手の思想のハナシは読者のみなさんの多くが嫌うことだろうから、またいつかに。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。