KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

給食のおばさんと給食当番

 

 

 僕が小中学生のころは、給食室があって、給食のおばさんたちが僕たちの給食を作っていた。そして給食当番が給食を取りにいき、配膳し、みんなで同じものを食べた。子どものときのことだから、それが普通だと頭に焼きついていた。

 

 しかしいまの時代。こういう学校があるのだと知った。外部の業者がお弁当をつくり、学校に配る。しかも希望する家庭の生徒のみ。一種のちょっとしたカルチャーショックを受ける。

 

 古い考えなのだろうけども、義務教育のうちは、みんなでおなじものを食べるべきかと思う。そして公平に当番を分担して、給食のおばさんが作った温かい給食を食べる。これも一種の教育じゃないかと。

 

 財政がどうとかあるのかもしれないが、キレイゴトといわれてしまうとちと悲しい。たしかにお弁当というカタチにすれば、合理的なのもわかっている。ただこの立川市の弁当は四十半ばの僕にはいいけど、子どもにはちょっとシブすぎやしないか。

 

 そして選択式ということは、生徒さんのなかには、パン2個と牛乳をコンビニで買ってきて食べるなんていう子もいるかもしれない。こうなってくると、大人たちによる子どもたちへの、格差構造への組み入れ強要ではないか。

 

 豪華めなお弁当を作ってもらえる子と、弁当を注文してもらえる子と、パンの子に、しだいと分かれていきそうだ。で、ここまでしておいて、ルールだけは厳密にあって、牛乳以外ダメとか、カップラーメンダメとかやっているのではないだろうか。

 

 でも考え方を変えれば、いまの世の中、むかしみたいに食う者がない家庭などないのだから、多少の”区別”は競争心が生まれて、かえって社会に、いい影響を与えるものなのだろうか。いやいやいや。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。