KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

続・哲学ってなに?

 

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 からの続き。木田元先生も著書で述べられているのだが、”哲学”はやはり誤訳であるらしい。まあだいたい、いかに西周がすごいヒトであっても、”哲学(フィロソフィー)”を学び始めたのが1862年だ。

 

 

 10年ちょっとでフィロソフィーがどれだけ掴めるのか。おまけにこのヒトは幕末という時代において幕臣だったわけで、ただ研究していればいい立場でもない。それでも明治維新ということで、啓蒙思想者として西洋の学問を広めようとしたのだろう。

 

 英語の言葉を、単にそのままカタカナ語で用いるのでは、その意味は広く世間に伝わりません。

 欧米の哲学や科学力を日本の日本人の知識としていくためには、語彙に即した日本語を造語していかなければなりません。

 そうすることではじめて、外国の概念や哲学が日本人のものになるのです。

 

 というふうに西周は述べていたのだが、これはどうだったのだろう。日本語の名詞にする必要があったのか疑問だ。もちろん彼が造語してくれたおかげで、哲学の中身は学びやすくなったという部分もあるけれども。

 

 そんなにあせらずに、あとの時代のヒトにまかせておけばよかったのかもしれない。”哲学”という名前は定着しているけれども、一般的にどういう学問なのかが、わかりにくいのは否めない。

 

 なにかこう哲学っていうと、哲学者の放つ名言ばかりがピックアップされて、それが哲学だみたいな感じになっている。ただそれだと「知る」だけになってしまう。ならば「愛」とは何ぞやと聞かれると困るのだが、知ってそこから考えるのが大事なのかもしれない。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。

 

 

【参考文献】

反哲学入門