KOTOBASM

言葉を使うようになって、ヒトは”時”を作った。それまではただ目の前にやってくる”生”を生きるだけだったのに、言葉と時制を持ったがために、ヒトはやがてくる死というものに怯えるようになった。

納豆の食べ方の問題

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 結婚でも同棲でも、いっしょに暮らすということになれば、ひとつ屋根の下で卓を囲んで食事をともにする機会も多くなる。ヒトにはヒトの積み重ねてきた食のこだわりみたいなものがあって、どこかで違和も生じる。

 

 

 

 納豆の食べ方ひとつとっても、ヒトによってさまざまだ。納豆のたれを使うか、それとも使わずに醤油を入れるか。ひきわり納豆でなければというヒトもいれば、豆は大粒じゃなきゃというヒトもいる。

 

 僕がそうなのだが、玉子を入れる、ネギを入れるというヒトもいる。なにも入れたくないというヒトもいる。自分が当然だと思っていた納豆の食べ方だが、思い出してみれば、誰として同じ食べ方の女性はいなかった。

 

 しかしいちばん困るのが、そもそも納豆を食べないというヒトが相手の場合だ。自分だけが食べればいいというならいいが、においすらダメというヒトがいるから、これまた大変なのである。

 

 関西のヒトで、食生活について関東のニンゲンをハナから見下しているヒトがいたりする。そういうヒトが納豆ぎらいだと大変だ。納豆を食べる関東人を野蛮人扱いする。特に京都のニンゲンに多い。

 

 なんでおまえはこっちに来たのだと。なにもそこまでといわれるかもしれないが、あわせておでんのちくわぶにまで異議を唱えられると、まさに仁義なき戦いの様相を呈するのであった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。