KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

お金というものに僕らはどう向かい合うのか

 「世の中、お金ではない」とはいうものの、やはりお金は必要なのである。ただ世の中においてはお金は必要だけれども、あの世にはお金を持っていけないという意識は、持っておくべきであろう。

 

 もう少しいうと、死に際に直面し、自分はなにをしてきたのかという思いがもたげたときに、後悔しないようにしなければならない。その日は突然やってくることもある。あたりまえであるが、ニンゲンはみな平均寿命どおりに生きられるとは限らない。

 

 

 またフリーランスであろうが、サラリーマンであろうが、生産性のないお金の稼ぎ方をすると最期は自分の人生ってなんだったのだろうかということになるだろう。たとえば世の中に出回っている金というのは限度がある。無限ではない。あたりまえのことだが。

 

 限られたパイを、ヒトのことをだましたりなどで、踏み台にして奪うことこそ生産性のない金の稼ぎ方である。逆に生産性のある稼ぎ方というのは、社会の役に立つ仕事だと思われる。

 

 それがこの世においては、そこそこ食べていけて、雨風しのげる家に住めるぐらいの収入だとしてもだ。ニンゲンがありがとうとヒトコトいわれるとうれしいというのは、そういうことなのではないかと思われるのだ。

 

 生きているうちは、子どもたちに財産の一つでもと思うかもしれないが、ニンゲン死んだらどうなるかわからない。死んだら守護霊になりたいと思った方が、いいのかもしれない。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。