KOTOBASM

言葉を使うようになって、ヒトは”時”を作った。それまではただ目の前にやってくる”生”を生きるだけだったのに、言葉と時制を持ったがために、ヒトはやがてくる死というものに怯えるようになった。

2019年どうやって生きていこう


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 ハナシは昨年末に、さかのぼる。平成の30年間をふり返る趣旨の番組がやっていて、仕事前だったのだが、アパートにて1人観ていた。僕が高校1年生のときに平成がはじまって、それから30年。あっという間という気もするが、ふり返るといろいろあったのだ。

  きっと、あっという間という気がするというのは、あまり世の中の動きに関心も持たず、そういうことにたいして、なにも考えずに、ただ目の前だけしか見ずに生きてきたからなのかもしれない。

 

 平成のあいだに起きた事件は多々あれど、ふり返るなかで考えさせられた事件。それが秋葉原無差別殺傷事件であった。詳細は省くが、犯人の生い立ちをみていると、やはり生まれながらの悪人などいないと考えさせられる。

 

 ちょっとした”ヒビ”から少しづつ水が漏れだし、最後には決壊してしまったという感じだ。ただ一つ犯人が見落としていたもの。それは愛の多様性だったようにおもう。愛というのは、好きな異性との恋愛だけではない。

 

 それは慈愛であったり、博愛であったり、家族愛であったり。それらをすべて愛と知り、そして考える。また異性との恋愛ばかりに重きをおくというのは、結局は自己愛と裏返しでもあり、好意をもった異性に交際を断られてしまうと、自己否定に陥ってしまう。

 

 もちろんニンゲンだから、防衛もしなくてはならない。ただその防衛のしかたが他者の否定になってしまうのが、ニンゲンの弱さでもある。”あいつはイケメンだからモテるしなにをやっても許されるのだ”という発想なんかそう。

 

 そうなると、自分はイケていないから、孤独だから武器を持つしかないのだということになる。もっと愛の多様性をわかっていたらよかったのにとおもう。そうすれば違ったカタチで孤独に陥らずに済んだのではないだろうか。

 

 かくいう僕は2019年になってどうやって生きていくのか、まだわからないでいるのだけれども、ちょっと哲学っぽくいうと、いかに知を愛し、愛を知るかというのが、ひとつのカギであるかなと考えている。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。