KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

果し合い復活論

 いまの40代男が3人集まると、昭和の話題で盛り上がる。3大鉄板ネタというのがあって、先生の体罰と、運動中に水は飲んではいけないというのと、うさぎ跳びの話題はみんな盛り上がる。いい思い出ではないのにもかかわらずだ。

  でも僕が出会った先生というのは、体罰もたまにするけど親身になってくれる先生が多かったので、不思議と嫌な思い出はない。別に暴力を肯定するつもりはないけれども、まあこういう昭和のヒトもいるということである。

 先日も生徒が挑発して、先生が体罰をあたえてしまったということがあった。これは先生だから100%悪いで終わらせることのできるハナシなのであろうか。日本には喧嘩両成敗というコトバが昔からあるというのに。

 むしろ表立って殴り合いのケンカもできないような世の中こそ問題があるのだ。そういう世の中で幅を利かすのが、狡猾なニンゲン、陰湿なニンゲン、裏の力がはたらくニンゲンなのだから。

 だからルールを設けて、大っぴらに果し合いをやれるようにすればいい。果たし状を書く、危険な状態にならないよう審判を置く、観覧希望者には公開、ルールは以上だ。先生が生徒に申し込むのももちろんOK。

 まあ果し合いにいく前に、果たし状をやりとりした時点で話し合いにて解決できれば、それが望ましいのであるが。ともかく圧力でどっちか一方にだけ制裁を加えられる裏のある社会というのはどうなのということだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。