KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

目にみえる世界

 今朝、通勤の道すがら、いわゆる歩きスマホをしていて、歩道の標識に激突したヒトをみた。せめて道を歩いているときぐらい、スマホをみるのをやめればいいのにと思う。

 

  あんな小さなものをジッとみていたら、目にみえる世界も小さくなるであろうに。また電車を降りるときにもスマホをみているヒトがいるが、電車とホームのあいだに落ちて挟まりはしないのかとも思う。

 

 スマホでみるたとえばゲームの画面というのは、つよく視覚に訴えてくるから、みているヒトに考えるいとまを与えない。要は自分の目にみえる世界を、他人に支配されすぎてしまうのだ。

 

 一回冷静になって立ち止まって考えてみる。そうするといかにゲームを作ったニンゲンの掌中で踊らされているかがみえてくる。他人のつくった世界などというのは、自分が作り上げた世界とさほどリンクするわけではない。オリジナリティの喪失である。

 

 つまりなるべくなら自分の目にみえる情報というのは、少ない方がいいということだ。自分の頭のなかで作られる考えの余地がうまれる。

 

 などといったらゲームが好きなヒトに怒られるか。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。