KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

このまま独りで社会に生きていくためには

 先日、ショッピングモールのATMの行列に並んでいたら、先頭の女子高生がスマホでおしゃべりしながら、だらだらと操作していた。どっちかにしろとよっぽど言ってやろうかと思われた。

 

  しかしそれも大人げないなと思い直した。いい歳したおっさんが、女子高生にたいしてそんなことで怒ってどうするんだということで。

 

 おっさんになったらもう”老いては子に従え”ではないけれども、社会の中で変にとがらずに丸くならねばならない。だれでも天使のように自由になりたいものだが、なかなかそうもいかないものなのだ。

 

 だからふつうに僕は若いヒトにたいして敬語も使うし、頼まれてもいないことで説教じみたことをいうのも控えようと思っている。なにか寂しいことを言っているようにとられるかもしれないが、そういうことではない。

 

 他人を変えようなんていうのはおこがましいことであり、それならば自分を変えるほうがよっぽど簡単だということなのだ。だからこうして大学に行って哲学を専攻しているのだし、それはいまの僕にとって本当に楽しいことなのであった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。