KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

昭和末期の相撲と令和のあいだ

 先日、元横綱双羽黒こと北尾光司さんがお亡くなりになりました。僕は昭和末期に相撲をよく観ていて、双羽黒はそのころに活躍していた力士なので、さみしいかぎりです。

 

 プロレスデビューだって、そんなに昔のハナシではないだろうと思っていたのですが、なんと平成2年でした。まあいろいろあって、プロレスでは成功しませんでしたが、最初はこれだけの体格をしてるのだからいけるんじゃないかと思ったものです。

 

 それでなぜこのような記事の題名にしたのかというと、平成のあいだに僕が熱心にみてきた力士たちがたくさんいなくなったからです。北天祐・隆の里北の湖千代の富士などなど。

 

 いちばん僕が好きだった若島津もついこないだ倒れたというニュースがありましたし。力士という職業は、体を酷使する分、命をちぢめるのでしょうか。大巨漢だった大乃国小錦は健在だそうですが。

 

 元号ってふだんはあまり意識しないのですが、節目でいろんなことが起きる気がします。こないだお亡くなりになったショーケンこと萩原健一さん。僕はこのヒトの大ファンでした。

 

 そしてもうひとり好きだった俳優さんが松田優作さんなのですが、昭和の末期にお亡くなりになりました。そして平成の末期にショーケンが。あくまで偶然なのですが。そのようなことを考えさせられました。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。