KOTOBASM

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

それでもなぜ「死にたいなら一人で死ぬべき」なのか

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 もちろんいわんとすることは理解できる。けれどもそれではたして、解決にむかうのだろうかと疑問にも思われるのだ。なぜかというと、ことの本質みたいなものを、無視しているようにみえるからだ。

 

 今回の犯人というのは、50歳をすぎて結婚をしているわけでもなく、だからもちろん子どもがいるわけでもない。それにくわえて労働もしていない。生きている価値が低いのである。

 

 これは配偶者のいない中年男(いちおう労働はしているけれど)の僕だからこそ、あえてそう述べている。もちろん生きる権利はあるけれども、その価値の低さを自覚しろということだ。

 

 生きている価値の低さを自覚していないからこそ、権利意識だけを持ち、働かずにゲームをしても平気な神経でいられる。生きる権利というのは誰しも平等であるが、死ぬ優先順位はヒトによって違う。

 

 生きる権利と価値というのは別物なのだ。

 

 もし自分の生きる価値が低いのであれば、低いなりの生き方がある。他のヒトに迷惑をかけずにひっそりと生きていかなければならない。ましてや自分と他人の命の価値は同等であると考えるのはもっての外なのだ。

 

 同等と思うから道連れにしようとして凶行にはしる。

 

 こういうことは社会の総意として論じてしまうと、無自覚なニンゲンの神経を逆なでしてしまうので、個人レベルで生きる価値の低いニンゲンの自分が述べていくしかないのだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。