KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

なぜ僕は大学に入ったかについて思われる

 福祉系の仕事についていて、介護福祉士の資格を持っていたのだが、別の資格をとるのに大卒でなければいけないということで当初は入学した。そして仕事をしながらということで、通信教育部のある日本大学を選んだ。

 

 そのときはまだ彼女も生きていて、私も行きたいななんてハナシをしていたっけ。本当は福祉系の通信教育がある大学に行くという手もあったのだが、どうせなら4年間は興味のある勉強をしようと考えた。

 

 最初は国文学にしようと思ったのだが、哲学の分野があるのを知り、迷った末に面白そうなのでという理由で哲学を選択した。単純な理由だったのだ。しかしその選択はある意味当たりであった。

 

 入学して半年後に彼女が亡くなり、ヒトは死んだらどうなるのか、追求したくなったのだ。哲学という分野は、神とはなにかとか、魂とはなにかということもテーマとして存在するのである。

 

 とはいっても現世においては、答は出てこないであろう。だがそれでもいいのだ。僕は死ぬ準備をはじめたのである。そしていざ死ぬというときになって、”とりあえずこれでよし”と思えればいいのだ。

 

 そういうわけで、いまは当初の目的であった福祉の資格うんぬんを考えないようになった。いまの状態で介護の仕事はひとまず無理だからだ。とりあえずは生きる目的のために、それはまた死ぬためにということにもつながっている。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。

 

f:id:hanpeita1973:20190730141146p:plain