なぜ大学って行くものだと思われますか。若いうちに大学に行かなかったけれども、いまとなっては社会人として働いているわけだし、もはや必要ないじゃないかと思われますか。
あるご高齢の方が通信制の大学に入学したときに、お孫さんからなぜその歳で大学に入学したのか問われて、こう答えたそうです。
「なにもしなくても、歳はとってしまうんだよ」
と。
ニンゲンは死を意識したとき、なにかのカタチを求めて、学問の道に入るものなのだと思われます。この方がなにを勉強しようとしていたのかはわかりません。ただひとついえるのは、教養を身につけようとしたのではということです。
若いヒトのばあいはそうとは限りません。将来すすみたい道に踏み出すために、研究の道に進んだというヒトもいるでしょう。またとりあえずまだ将来の道はわからないけど、大学だけは行っておこうというヒトもいるでしょう。
人生の折り返し地点を過ぎる前と後で、学問の意味というのは変質していくものだと思われます。教養というのはこれまた定義しようがないのですが、数学者の藤原正彦さんのコトバを借りると、このような感じである程度は共有できます。
「古典や哲学などの知識とそれらを通した人格の陶冶」というような概念と思います。
陶冶…いろいろな試練を経させて、役に立つ一人前の人間に育て上げること
以上をふまえて考えていきますと、ニンゲンはかならず死ぬからこそ、人格を形成し、死というものに臨むのだということになりましょうか。僕も身近なヒトたちの死を通して、齢四十半ばになり哲学を学ぼうと思い立ちました。そのような感じです。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。
【参考文献】