KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

自分の心を知る方法

 一室に閉じこもって、3日ばかり何もしないでいる。新聞も読まない。ラジオも聴かない。テレビも観ない。本を読んだり、絵を描いたり、編み物をしてもいけない。人にも会わぬ。仕事のことも考えない。

 

 電話の受話器に手がのびそうになるだろうがグッとこらえる。こうして雑多なものが流れて通るのを完全に止めてしまって、川床の状態を仔細にしらべてみること。それ以外に自分の心を知る方法はない。

 

 そうなのです。だからもちろんこうしてパソコンをひらいてインターネットをするのもいけません。多忙な毎日のなかでそんな数日間も使えるかといわれるかもしれませんが、それは裏を返せば、自分の心を知る必要性が、あなたにはないということなのです。

 

 自分をみつめなおす時間を作るということですね。しかし実際問題として”心”ってなんなのでしょう。カタチがあるわけでもないですし。私にとって心というのは、脳とその命令にしたがって動く体の間を簡略にあらわす記号でしかありません。

 

 というようなことをつらつらと記録しましたが、最初の2段落目までは、エリッヒ・フロムという社会心理学者および哲学研究者のコトバです。フロムは1900年に生まれ1980年に亡くなっていますので、あのような表現になっています。編み物とか(笑)。

 

 いやいまでも私は編み物やってるもん!という方がいたら申し訳ありません。つまり”雑多なもの”がヒトの周りにはたくさんあり、また現代社会においてはフロムの時代にくらべて膨大に増えているということなのです。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。