KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ニンゲン死ぬ時は人生ふり返りたい

 昭和50年代末期に、投資ジャーナル事件というのがあった。いわゆる詐欺事件なのだが、当時小学生の僕に事件の意味はわからなかった。ただワイドショーで歌手の倉田まり子がレポーターに責められていたのと、犯人の中江滋樹の風貌だけは強く印象に残っている。

 


倉田まり子 投資ジャーナル事件会見

 

 実際には愛人関係というわけではなかった(食事に行ったぐらい)そうで、濡れ衣を着せられたカタチになって、倉田まり子は引退に追い込まれてしまった。

 

 中江滋樹の方はというと、”兜町の風雲児”といわれかなりの富を築いたはずが、釈放されたあとは、ほとんど無一文の状態になってしまったそうだ。

 

 ちなみに逮捕された当時は、豊田商事事件というこれまた詐欺事件があって、前日に永野一男会長が刺殺されるという事件が起こっている。なので保護の意味もあって急に逮捕になったとか。

 

 なんでこんなことを話題にしているのかというと、先月にその中江滋樹が自分の住んでいるアパートで焼死したという事実を知ったからである。因果応報なんていうものを僕は信じないニンゲンだが、とても考えさせられた。

 

 僕は常に低空飛行の人生でお金には縁のないニンゲンだからいいが、中江滋樹のような一度は栄華を極めたヒトが最期にアパート暮らしというのはキツいと思われるし、人生をふり返ることのないまま、このような苦しい死に方をするのは悲惨だと思われる。

 

 こういう中江のようなニンゲンこそ、最期は人生を反省してから死ぬべきだと思われるのだが。ヒトは死ぬ時はお金を持っていけない。それなのにヒトをだましてお金を得ることの無意味さを恥じて死ぬべきだったんじゃないか。

 

 それともニンゲン死ぬ際には、肉体の痛みや苦しみをから解放されてまた思考する機会ができるのだろうか。これは形而上のテーマであるので、この世に生きている僕にはわかりえぬことであるが。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。