KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

志村けんさんの訃報にショックが隠せない


「本当に残念の一言」志村けんさん兄が涙のコメント(20/03/30)

 志村さんは僕の両親と同じ昭和25年生まれで、昭和48年生まれの僕が物心つきはじめたころに、東村山音頭で花開いたという印象がある。そして8時だヨ全員集合が終わったのが昭和60年。子ども時代の僕の目に、強い印象を残した。

 

 だから訃報を聞いて、大きなショックを受けたのだろうと思われる。去年のショーケンのときも大きなショックだったけれども、ショーケンの場合は長い時間闘病しながら頑張っていたということなので、まだあきらめはついた。やっと休めるのだからと。

 

 コロナウイルスがうんぬんというのはもうどうでもよくて、志村けんという存在を失ったこと自体がショックなのだ。よくこの訃報を聞いて、コロナがどう、安倍政権がどう、中国がどうなどとみんないえるなと思われる。自分の価値観の押しつけなのは承知で。

 

 お兄様もさぞかし無念だったと思われる。急遽再放送された志村さん出演のファミリーヒストリーを観たのだが、その最初にお兄様が出てきて、けんさんにそっくりで、なんて人がよさそうなのだろうと思わされた。

 

 番組のなかで、病気のお父さんがいるなかでドリフターズの付き人となろうとするけんさんを、何もいわずにお母様と送り出したという話があったが、お兄様をみるとそれもわかる気がする。

 

 だからこそ、けんさんの死で責任を感じやしないだろうかと心配になる。芸能人にならなければもっと長生きできたのではないかとか。死に目にあえないどころか、亡きがらをみることもできずだなんて、あまりにも切なすぎる。

 

 僕はヒトの死に運命なんてないと思っているニンゲンだが、いくつもの偶然が重なるとこれほどまでに悲しい結果になるものなのかと、今回のことで痛感させられた。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。