KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

生と死の狭間

 うちの母が先月の20日脳梗塞で倒れて、ずっと救急病院に入院していました。命に別状はなくなり、一般病棟に移り、おかげさまで8月13日にリハビリテーション病院に転院とあいなりました。

 

  転院につき、付き添いが必要ということで、介護タクシーに同乗しました。幸いにも倒れる以前の記憶はしっかり残っていました。ただ言葉を発するのが難しいようです。頭の中で言語化することができても、それをアウトプットすることができない。

 

 それでも少しは言葉が出るし”はい”と”いいえ”の意思表示はできるので、ある程度のコミュニケーションがとれます。なのでリハビリテーション病院に行くまでの間に話をしました。そこで哲学を学ぶ人間の血が騒ぎ、昏睡状態の間に意識があったのか聞いてみました。

 

 するとすでにこの世にいない母方の祖父と祖母に会ったというのです。もしかしたら昏睡状態から脱する過程における夢なのかもしれません。ここらへんの境界線の線引きが難しいところなのですが。

 

 リハビリがすすんで、もう少し話ができるようになったら、掘り下げて聞いてみたいと思います。このコロナ禍で今後しばらく面会できないのが残念なのですが。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。