KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

話し言葉と書き言葉

 やはりこっち側の人間だったのだと思われる。

 

こっち側というのは”ブログ”である。そしてあっち側はYouTubeである。いつも小生は言葉足らずであったと後悔する。そうして悪印象をいろいろな人に与えてしまうのだ。

 

  そしてそれはいつも会話の中でやらかしてしまうのだった。こちらに悪意はないのだが、人を怒らせてしまう。頭の中に数余多、さもすると無限に存在するのではないかと錯覚してしまいそうな中からつい選んでしまった言葉。

 

 言葉は記号として”性格”というものに変換される。相手が本当に考えている事なんてわかるわけがないのだから、かんたんに変換されて、こいつはこういう性格なのだと思われるのは致し方ない。

 

 そういう言葉の行き違いが起きるのは、たいてい話し言葉の方なのだ。また口が軽いのかというと、でも頭の中で考えていた言葉を発しようとしてもうまく出てこない。頭の回転が悪いというヤツである。で出したら出したで出てくる言葉がそれ?みたいな事がよくある。

 

 その点でいうと書き言葉の方は、前言が記録として残っていて、言葉の組み立てがしやすい。どちらかというと書き言葉の方が得意なのである。いや小生は書き言葉の人間なのだ。よくこれでお笑いの舞台に立ったり、YouTubeをやったりなどしたものだ。

 

 適性がないとわかっていてもやってしまうところが、バカの所以である。自己顕示欲が強いのであろうか。そもそも容姿が優れているわけでもないのに。と、以上の反省も含めてこうしてまたキーボードをカチカチ打っているのであった。

 

 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、一冊の著作も残さなかった。それはなぜかというと、話し言葉は書き言葉より言葉として生き生きとしているからだそうだ。そうなのかもしれないが、話し言葉は残りにくい。伝言ゲームのように間違って伝わる可能性もある。

 

 今でも残っているソクラテスの言葉というのは、弟子のプラトンが遺したものだが、彼によるソクラテスの対話篇を読んだ事がある人ならわかるだろう。そんな詳しくソクラテスの話を書けるわけがないだろうと。しかもプラトンが直接見聞きしたわけではないのだ。

 

 ソクラテスプラトンの話は蛇足であるが、なにが言いたいのかというと、やはり頭の中で思索した事は、こうして記録に残しておいた方がいい。さすれば頭の中も整理されて、話す言葉も少しは改善されるのではないかという事だ。

 

 きょうのところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。