KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

魂のゆくえ

 先日、大阪で男子高校生がビルから飛び降り、女子大生が巻き添えをくらい亡くなったという事故があった。女子大生の方は当初重体ということだったので、事態の悲惨さもあって助かってほしいと願っていたが、残念な結果となった。

 

 人間は死んだらどうなるのか。これはまさに形而上の分野である。形而上というのはすなわち、はっきりとした形はなく、感覚の働きによってはその存在を知ることが出来ないもののことである。

 

 なかには自分は神またはその使いだとして、天国と地獄は存在するという人間もいる。しかしそれは100%嘘である。なぜかというと、死後の世界は死なないかぎり見ることができないからである。

 

 死は脳をはじめとした肉体の機能の停止をもってしかありえない。つまりこの世において、思考をもって死後の世界をみたというのは全部嘘ということに他ならない。

 

 ただそれは魂という存在を否定するということでもない。魂とは肉体の死から独立した精神である。これもまた形而上の存在といっていいだろう。現世においては、肉体の一部である脳のはたらきによるものとされている。

 

 人は脳をはじめとした肉体が死ねば思考が停止し、永遠に無となってしまうのか。それとも精神は残るのか。どちらのケースも考えられる。つまりどちらか一つを否定することはできない。

 

 どちらも包括しながら今をよりよく生きようとするのが、とりあえずの選択肢といえよう。天国や地獄の存在に振り回されて思い悩んではいけない。実はイエスさまもブッダさまも天国や地獄があるなどとひとことも言っていない。人間が後付けで作ったものである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り僕は君のそばにいる。