KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ワクチン接種は使命感から

 もうみなさんは打たれたのだろうか。私は高齢者施設で仕事をしているので、同年代の人に比べ早い時期にワクチンを接種することになった。働いている施設が提携している病院に依頼し職員も接種することになったのだ。

  

 接種するにしろしないにしろ、職場の方に誓約書を書かなければならない。私個人は接種しなくてよければ、しないに越したことはないというのが正直なところだ。だが、しないと申告すると上司と面談しなくてはならなくて、なかなか面倒なことにもなる。

 

 誓約書には接種すると書いた。接種したくないというのは、あくまで私個人の都合であり、もしものことがあって施設の高齢者になにかあったら困る。つまりは他の人の事を考えてのことである。

 

 社会のなかで生きているのだから、やはり個人の都合よりも多くの人の身の安全の方が大事なのである。接種しないより接種した方が他の人の安全は守れる可能性は高いのだから。それは使命感のようなものである。

 

 なぜそのようなことを述べているのかというと、副作用がうんぬん言って終いにはワクチンを保管している病院の冷凍庫のコンセントを抜いてしまえなどという輩が一部に存在しているからである。

 

 打ちたくても打てない人がたくさんいる中で、個人の勝手でワクチンをダメにしようとするという考えがどうにも許せないのである。他の人の感情を無視して個人の勝手を押し通そうという考えは私の思想と絶対に相容れないのである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。