KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

アリストテレスのカテゴリーアイについて

 この文章は僕が現在通っている日本大学通信教育部文理学部哲学先攻の「哲学概論」という科目の提出レポートですが、僕のモノの考え方の基本みたいなものなので、掲載

しておきます。稚拙な文章で恐縮です。

 

 

 アリストテレスソクラテスプラトン

は異なり、アテナイ生まれではなく、ギリシ

ャ北西部のマケドニアのスタゲイロスという

街に侍医の子として紀元前384年に生まれた。

 10代で両親と死別し、17歳でアテナイに来

プラトンのもとで20年間学び、その後、諸

国遍歴し、アテナイにリュケイオン学園を創

設した。プラトン哲学を批判し、巨大な思想

体系を築き上げる。

 アリストテレスは「存在者」と「存在その

もの」とを分け、「存在者」を対象にする諸

学を自然学とする。そして「存在そのもの」

を考察することについて自然学より先立つ純

粋な学問と位置づけた。この学問を自然学(physica)の後(meta)に置かれた学問としてmetaphysicaすなわち《形而上学》とした。

 また存在についての分類をする。それを

「カテゴリーアイ」という。カテゴリーア

イは次のように「存在そのもの」を分類する。

ソクラテスは人間である(実体・本質)

ソクラテスは170cmである(量)

ソクラテスは色白である(性質)

ソクラテスはクサンティッぺの夫である(関係)

ソクラテスアテネにいる(場所)

ソクラテスは70歳である(時)

ソクラテスは瞑想しているものである(状態)

ソクラテス無知の知がわかるものである(所有)

ソクラテスは若者に質問しているものである(能動)

ソクラテスは告発されているものである(受動)

 ①から⑩にあげた各々の《ある》という言

葉は、また各々の意味として語られ、それら

は《あるの多義性》という。

 そしてそれらは大きく二つにも分けられ、

ひとつは偶然または付帯的な《ある》、もう

ひとつは本質的な《ある》となる。前者は②

から⑩にあげたもので、後者は①となる。つ

まり①は独立存在であり、②から⑩は依存存

在である。

 以上は今回の授業の内容について筆者なり

にまとめたものである。次に今回の授業につ

いて考察したことをまとめていく。

 まず形而上学についてである。形而上学

はつまりは何か。筆者の手元にある辞書「新

明解国語辞典(第4版)」によると、「形而上」

とは《はっきりした形がなく感覚の働きによ

ってはその存在を知ることができないもの。

精神的なもの》ちなみに形而下という言葉を

引くと《はっきりとした形が有って感覚の働

きによってその存在を知ることが出来るもの》

となっている。では感覚とは何か。見たり聞

いたりさわったりして大小・形・色・音・臭

いなどの状態や物事の性質を知る働きの事を

いうのだとか。そして形而上学というのは、

《物事の根本原理を研究する学問》というこ

とになっている。自然学というのは形而下に

あるものついて、その性質を深く知るための

学問であると考えられる。鳥の翼はどんな働

きをしているのか(外的から逃げるため?餌

を確保するため?)どのような構造になって

いるのか(どのような成分で出来てる?)な

ど。そしてその自然学より先立つ学問として

アリストテレス形而上学は、翼とは何か?

という問いに形相+質料であるとする。また

翼を含め物事はなぜ存在するのか?そもそも

存在するとはどういうことなのか?という存

在そのものに関する考察も形而上学である。

 カテゴリーアイすなわち《~であるについ

ての分析》について、ソクラテスも筆者も人

間である。実体としての人間は思考する。思

考するからこそ、その実体は疑いようがない

ともいえる。実は筆者が狂人で、いま自覚し

ている己の量・性質・関係・場所・時・状態

・所有・能動・受動が筆者以外の正常な人た

ちが見ている現象と違っていたとしても、《

僕は人間だよ》という思考は疑いようがない。

 人間はもし死んだらどうなるか。死後の世

界は《ある》のだろうか。これは筆者が幼児

の時分から現在まで考え続けてきたテーマで

あるがそれこそ形而上のものである。ちなみ

に筆者は靖国神社に英霊が眠っていると安易

にこの現世で宣い、他者にその考えを強要す

る者を絶対に許さない。英霊など現世におい

てその実体がないし、その実体のないものを

《ある》として死を賛美することは絶対に許

されないと考えるからである。

 死後の世界の存在は《ある》かもしれない

し《ない》かもしれない。現世において存在

する自分にとってはそう述べるしかない。一

つ言えそうなのは、もし死後の世界があると

したならば、自分の実体だけは残るというこ

とだけである。

 なぜ今回、筆者が様々なテーマのなかでア

リストテレスのカテゴリーアイを選択したの

かというと、存在するとはどういうことなの

かというテーマは古今の哲学者が考察してき

た哲学のメインテーマのひとつであると思わ

れるからである。