KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

孤独への試み《社会》をみないようにすること

 いつだったかあるバラエティ番組で、秋葉原通り魔事件の再現ドラマをやっていた。その前にも同じように再現ドラマを交えた特集をやっていたことがあったが、なぜだろう、この手の番組は解決案を提示しない。

 

 犯人は孤独だった。そういう人もいるであろうがどうだろうか。孤独だったらむしろこんな事件を起こさないのではないか。というのもこの犯人は社会においてどうみられるかということに固執していると思われるからだ。

 

 彼女を欲しがるということなんぞ、そのあらわれだろう。そういう人間は社会におけるステータスシンボルを欲しているのだ。孤独はまったく悪くないし、犯人は孤独ではない。現に女の人とコンタクトがあったわけだから。

 

 それにインターネットの掲示板で匿名の相手とコミュニケーションをとっていたのだから、むしろ社会に飛び込んでいる。ただ社会というのは、一つの大きな枠組みではない。もっと複雑だ。

 

 社会というものは、2人でも成立する。家族や親せきだって、ひとつの社会だ。それらがたたみいわしのように絡み合って大きな社会が形成されていく。絡み合ってはいるけれども、小さな社会の結界はなかなかに強固なのである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り僕は君のそばにいる。