某雑誌の原稿に「狂人」という言葉を使ったら、校了直前に変更してくれとの連絡。「気違い」が差別語ということになり、今度は「狂人」もダメということになれば、いったいmadな人をどう日本語で表現したらいいのか?
— 福嶋亮大 (@liang_da) 2015, 8月 16
なぜこういう問題が出てくるか。それは出版社だけの問題にしていているからだ。出版社の問題だけにして、内々に処理しようとするから、表に出す前に自主規制してしまうのである。無難だから。
福嶋氏は、この「自主検閲のインフレ」について「SNS普及と震災前後くらいからいっそうひどくなっている」と分析した上で、一連の動きに対して「出版の自殺行為では」と疑問を投げかけている。
http://news.livedoor.com/article/detail/10478093/
まったくそのとおりだ。出版だけではない。テレビもそうである。クレームなんかを恐れて、表に出す前に自主規制なんてしていたら、表現活動はだんだんと尻すぼみになる。いや現にそうなっている。
そしてテレビも紙媒体もつまらなくなった。これからは新しいものの時代だ。などと脳天気に嘲笑をうかべながら語られる搾りかすみたいな言葉しか残らなくなる。いっておくが、テレビや紙媒体がつぶれたら、次の標的はその”新しいもの”なのである。
クレームなんていうのも、テレビ局や出版社で止めておく必要はない。ぜんぶ公開して、白日の下にさらしてしまえばいいのだ。表現の自由については、テレビ局や出版社だけの責任ではなく、社会全体で責任を持つべきなのである。
クレームなんてものは、キチガイじみたにんげんがおのれの全能感を満足させるためにあるようなものだ。クレームは、サイレントマジョリティの目にみえるようにするべきなのだ。そうすることで、ああこのクレームは変だなとみんなが気づくのである。
だからこそクレームのデータベースというのが必要になってくる。インターネットでみんなが自由にみられるように。 そこで自由に意見がいえるようにすればいいのだ。表現の自由にかんしては、一部の圧力団体やキチガイだけが発言権を持つわけではない。