KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ジハーディ・ジョンが死んだ

米軍は12日、イスラムスンニ派過激組織「イスラム国」が「首都」とするシリア北部ラッカで、日本人ジャーナリストの後藤健二さんらを殺害したとみられる通称「ジハーディ(聖戦士)・ジョン」を無人機で攻撃した。米国防総省が同日、明らかにした。生死は調査中だが、米政府高官はCNNテレビに「死亡を確信している」と語った。

後藤健二さん殺害の覆面男「ジハーディ・ジョン」狙い米軍が無人機攻撃 米CNN「死亡を確信」 

 去年の11月にこのニュースが流れて、しばらくは生死不明であったのだが、どうやら本当に死亡が確認されたらしい。ISILの機関紙で正式に発表されたのだとか。年齢は知らなかったのだが、27歳と知って驚いた。そんなに若かったのかと。

  言うまでもなく、ジハーディ・ジョンは同胞の湯川遥菜・後藤健二両氏を殺害したニンゲンである。それ以外にも多くの人質を処刑したニンゲンである。当時はものすごい怒りの感情がこみ上げてきた。だが、ヤツが死んだからといって喝采をあげる気にはなれない。それどころか何かすっきりしないのだ。

 その理由はすぐにわかった。アメリカが無人機で攻撃して殺害したからである。殺し方があまりにもゲームじみてはいないか。色々な意見はあるとおもうが、機械には憎しみの感情が無いぶん、殺し方はこっちの方が残酷ではないか? そんな気がするのだ。

 反面暴力を全否定できない気持ちもある。後藤さんや湯川さんが処刑されたとき、暴力ではなにも解決しないと言ったニンゲンがいた。あれから彼らは何か発言をしただろうか。むしろ後藤さんや湯川さんのことをただ忘却の彼方に追いやっているようにしか見えないのだ。

 かくいうこちらも、2004年にイラクで非業の死をとげた香田証生さんも含めて、忘却の彼方に追いやらないようにするのが毎日精いっぱいなのだが。彼らの死もジハーディ・ジョンの死も同じニンゲンの死だ。民族であったり宗教であったり色んなものが絡まりはするけれども、只々ニンゲンの死だ。