KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

クレーマーに見せられるもの見せられないものを決められて腹が立たないのか

日清食品は、ビートたけしさんや矢口真里さんらが出演するカップヌードルのテレビCMを、7日夜から中止した。ホームページに「ご不快な思いを感じさせる表現がありましたことを、深くお詫(わ)び申し上げます」とする謝罪文を出した。
 CMは3月30日から放送されている「OBAKA’s UNIVERSITY」シリーズの第1弾。矢口さんや小林幸子さん、新垣隆さん、畑正憲さんが教員役で若者らに講義し、学長役のたけしさんが最後に「いまだ!バカやろう!」と呼びかけるもの。日清食品によると、CM内の表現を問題視する多くの意見が寄せられ判断したという。

矢口さんら出演のカップヌードルCM中止、日清が謝罪文 

 僕は腹が立つのだが。こういうニュースが報じられるたびに何度でも同じようなことを言っていく。少数のクレーマーの声にその他のヒトの見る権利が侵害されて果たしていいのか。制作側も屈するのはいただけないが、クレーマーの声が当然の物とされていいのか。

 クレームがあっても、このネット社会だ。声は声として企業のホームページなどで明らかにしておいて、しばらくは放送しておいて、その後で改めてみんなで議論すればいい。声が大きければそれが大衆の意見なのか。いや違うだろう。サイレントマジョリティの声を聞く努力を制作側はするべきだ。

 このニュースは先日東京MXの「バラいろダンディ」でも報じられ、放送するべきか否か街頭インタビューを行ったのだが、3分の2のヒトが放送すべきという意見だった。ということはすなわち、クレーマーが消費者の代表というわけではないということなのである。

 放送すべきと考えるヒトはこういうクレーマーの存在に怒るべきなのだ。くだらないことでは決してない。こういうのが続くと表現の可能性はどんどんと狭められていく。つまりは楽しむ喜びが失われていくのである。無難なものばかりになったらおのずとそうなるのだ。