KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

「その手は欲が出ている」「人間性を高めなければ碁も強くならない」(長谷川義則)

囲碁打って死にたい 末期がん押して予選突破、翌日逝く:朝日新聞デジタルより


  俺は思うんだ。名誉に対する欲と勝ちというものに対する想いというのは別だとね。たとえば自分が芸能界で売れたいと思うことと、表現する自分をバカにしているヤツに勝ちたいと思うことは非なるものなのさ。

 理屈じゃない。感覚の問題さ。だから君の反論は受け付けないからね。もちろん最終的な勝ち負けというのは、自分との闘いなのさ。ただそこまでいくまでに欲の絡んだ勝ち負けが存在し、それに翻弄されてしまうんだ。

 その点でこの長谷川さんは、余命を宣告され明日死ぬかもしれないというなかで、ただ勝つことに執念を燃やしたんだと思うよ。対戦相手に勝ち、そして病身の自分に勝った。純粋にそれだけ。欲なんてない。それで翌日亡くなった。

 さあ亡くなるというとき。はたしてどんなことを長谷川さんが思ったのか。思いそのものがあったのか。俺らには知る由もない。満足だったのだろうか。それともまだまだ勝ちたいという気持ちがあったのだろうか。

 それとも実はそんなことどうでもよかったのか。薄れゆく意識ななかで、ただ漠然とああ死ぬんだなあって思っていたのかもしれないよね。俺はニンゲン死ぬときにどうなるのか、こういうときに考えてしまうんだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、俺は君の傍にいる。