KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

【テレビメモ”ザ・ノンフィクション”】孤独の後始末 請け負います

 特殊清掃人という職業がある。そのような職業があるというのは、なんとはなしに知っていたが、業務の詳しい内容は、この番組を観るまで知らなかった。それは僕の想像を絶する過酷さであった。僕も独身で一人暮らしなので、他人事とは到底おもえない。

 おかげさまで僕は、仕事やプライベート、家族・親戚関係でもヒトとのつながりがあるので、なにかあったら比較的どうにかなるのだが、世の中にはヒトとのつながりをほとんど持たず、孤独に自室で突然死を迎えるヒトがいる。

 そして誰にもその突然の死を発見されずに放置され続けて、強烈な死臭を放つまでになって、やっと同じアパートの住人に気づかれる。その屍が”回収”された後の片づけをするのが、特殊清掃人の仕事だ。

 だいたいそのような孤独な死に方をするヒトというのは、部屋が汚い。もし自分が死んだあと他人にどう迷惑がかかるのかは考えたことがないのだろう。むしろどうでもいい。ただ呼吸しているから生きている。その呼吸が終わったら死ぬ。死んでしまえばそれまで。”孤独”とはそういうものだ。

 すぐに発見されようが、そのまましばらく放置されようが、死んでしまえば現世とはそれまで。それは確かなことなのだが、現世に残されたものたちには大変な処理が待っている。特殊清掃人はその死臭を取り除かねばならないのだが、死臭というのはなかなか消えない。

 そもそも死臭というのは、死人の血液であったり体液が床などに染み込む。それが臭いを放つものだから、なかなか消えないのだ。今回登場した特殊清掃人の高江洲敦さんは、丁寧な仕事でそれを取り除く。床にまで染みついていたら、それをひっぱがし、柱にまでついていようものならカンナを使って柱を削る。

 その姿は神々しくみえる。それはビジネスの範疇を超えた、高江洲さんの孤独死したヒトに対する慈しみがあるからだ。それがなければ、この仕事はできない。慣れてビジネスライクにできるような仕事ではないのだ。

 僕は今回、仕事に行く前に観てしまったのだが、憂鬱にはならずとも生の意味について、とても考えさせられた。無論、生の後のことについてもだ。いつでもなにかあったとき、きちんとヒトに迷惑をかけないようにしないといけない。それにはやはり最低限、ヒトに礼を尽くし、かかわり続けなければと。

 孤独死されたヒトのなかには、家族だったヒトにさえその死を受け入れてもらえずに、50万ほどの処理費用を大家さんに全額負担させてしまう事例があった。家族も家族だが、やはり一番の問題は死んだ本人にある。

 死んだヒトに対して残酷なことをいうようだが、それは僕自身の問題でもあるのだ。孤独死されたヒトは僕と同じ仲間なのだ。だからあえてそう思う。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。