KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

曽野綾子先生が認知症の夫のためにぜひやっていただきたいこと

高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。どの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ」。

 以上、産経新聞のコラムからの引用。もうあれは去年のはじめのハナシであったか”アパルトヘイト容認発言”も。いまとなっては、なにごともなかったかのように、連載は続けられている。うまく逃げ切ったものだ。

 文章があらわすとおり、介護の仕事というのは専門的知識なんていらない、「おばあちゃん、これ食べるか?」程度の語学力があればつとまるというのが先生の主張である。まあいうなれば日本人の介護士よ、お国のために低賃金で働きつづけろ、おまえらの代わりなんていくらでもいるというところか。

 少子高齢化の世の中。それはそれで社会の本音なのだろう。しょせんは僕の持っている介護福祉士という資格なんてゴミくずみたいなものだ。別にこんな資格持っていなくたって、介護の仕事には従事できるし、さして給料があがるというわけでもない。ただ多少は就職しやすいだろうってだけのものだ。

 じゃあなんで取ったのかというと、それでも資格の勉強するのは、人生にハリができて楽しいからである。こんなゴミくずみたいな資格であっても合格したら嬉しいものだ。まがりなりにも国家資格をゴミくずいうなって?だって文壇のお偉いさんが介護の仕事を見下しているのだからゴミくずはゴミくずではないか。いいんだよゴミくずで。とりあえずメシが食えてりゃそれでいいのだ。

 ハナシはかわって、曽野綾子先生の夫である三浦朱門先生が認知症になったとか。「真のエリート復活のためには体罰の復活しかない」などの高邁な思想をお持ちの先生も90歳。そんな先生であっても認知症になってしまうのだ。

 ここは曽野先生もぜひ三浦先生の認知症の介護は、来日したばかりの外国人に依頼してもらいたいものだ。家族のようなやさしさは、言葉の壁をこえるのか。家族のようなやさしさは存在するのか。ぜひ僕のようなゴミくずにも教えてもらいたい。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。