KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

イミ・イミ・ムイミ・ムイミ・イミ



 第4項の「まともな人」という文章のなかに、NHKみんなのうた」で放送された歌で、歌詞の意味がわからないという問い合わせをする中高年男性のハナシが出てくる。そこから、聞いてくる中高年男性がまともか、そんなことを聞いてこないですぐに歌をおぼえて歌う子どもがまともかというハナシになる。

 中高年男性はことばに意味があるものだと思っている。でも意味が無かろうが、間違っていようが、歌を歌うのには差しさわりがないという結論にたっする。よく考えたらたしかにそうだ。しかし意味をもとめる中高年男性にとっては、意味を理解することで、歌に深みが増すという考えがあるのかもしれない。

 これいじょう僕が考えてもそれこそ意味はないとおもうので、これ以上の言及はさけておくが、この対象になった歌について触れたい。




 「テトペッテンソン
ハナっから意味なんてない。なくても歌として成立している。そんなものだ歌って。だいたい洋楽だって、英語の”意味”がわからなくったって聴いていたものではないか。この歌を歌っているのが、井上順なのがまたいい。

 井上順というヒトは、”軽薄”であり、”軽妙洒脱”である。夜のヒットスタジオの司会をやっているときも、しゃべるコトバそのものが軽やかだった。ニンゲンそのものの姿を”軽薄”および”軽妙洒脱”というヨロイでコーティングしている。というと矛盾しているようだが。

 とにかくこのヒト自身も、テレビカメラを通したジブンに意味を求めさせない。僕にとってこのヒトは、好きか嫌いかというのは無意味で、ただ芸能界に必要なヒトなのであった。

 そんな井上順がいま大河ドラマ真田丸」に出ている。織田有楽齊という物わかりのよさそうなフリをして、ひと癖もふた癖もあるような食えない爺さんの役なのだが、これがまた合っている。今回はただ軽薄なだけじゃないのがミソ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。