KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

クドカンに時代劇は似合わない

「現在放送中の『真田丸』で55作目の大河ドラマだが、時代劇だとそろそろ“ネタ切れ”感がしてしまう。主人公は実在の人物であることが大前提だが、戦国や幕末時代を中心に平安時代からひと通り著名人の物語は描き尽くした。

時代劇の“ネタ”が切れた大河ドラマ

 ネタじたいは開拓しようとおもえばまだいくらでも出てきそうなかんじがする。ただそれを掘り下げる、たとえば司馬遼太郎のようなヒトがいないのではないか。林真理子の原作が採用されたりするのがそれを証明している。

 



 べつに林真理子が書き手としてどうこうというわけではない。ただ西郷隆盛が篤姫に淡い恋心とか、歴史を掘り下げることをやらないから、そういう恋愛要素みたいなものを入れてしまうのかなと感じてしまうわけだ。

 事実に近いのであれば恋愛のことを書いてもいいけど、推測や想像の域を出ない恋愛要素を、歴史小説で書いてしまうのはなんかなあってかんじるのであった。あくまで僕の自分勝手な見解なんだけれども。

 その林真理子原作の「西郷どん」の次の年の大河ドラマが、宮藤官九郎の”オリンピックもの”なのだけれども、実は興味がある。やはりクドカンには時代劇は似合わない。時代劇のネタが尽きたのではなく、むしろクドカンに頼んだのならこれだろってはなしだ。本人も歴史には興味ないようだし。

 今日のところはこれまで。 ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。