KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

今テレビでやっている衝撃映像は本当に衝撃映像なのか


しばらく衝撃映像を映す番組をみていない。
それを夜勤中に偶然観てきづいた。
中高生のころは、新聞のテレビ欄をチェックしてあったら必ず観ていたのだが。
そのむかし「世界の決定的瞬間」という番組がやっていたのだ。

いまとむかしで何が違うのか。
やはりいまは人の死ぬ場面をやらなくなったというのが大きい。
いまは放送基準がきびしいのだそうだ。
お笑いもそうだけれども、いまは放送基準やら自主規制やらで表現そのものががんじがらめになっている。

好奇心で人の死を観ようとするのは感心しないが、学ぶことも多々あるのではないか。
むかし観た映像を思い出して、大人になってインターネットで調べてそういう背景があったのかと初めて知ったことも現にあったし。
個人的に観たなかで、いまだに記憶に残っている事件がいくつかある。


 ティック・クアン・ドック師の焼身による政権への抗議

これは1963年6月11日に当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身し亡くなった事件。
映像がしばらく頭にあって、なぜこんなことになったのか、大人になってインターネットで調べて初めて知った。
信念というのは、痛みや苦しみをも超えるのだと痛感した事件。


川崎ローム斜面崩壊実験事故

1971年(昭和46)11月11日、科学技術庁国立防災科学技術センターなどが川崎市生田緑地公園で行った斜面崩壊実験の失敗により発生した事故。
実験関係者・報道関係者ら15名が生き埋めとなって死亡した。 
カメラマンがその死の直前まで撮った映像があって、その迫力と最後まで撮りつづけた姿勢に衝撃を受けた。
後に大人になってから、慰霊碑に行った。



代表的なのはこの2つかな。
どうだろう、こういった事件を振り返ることを規制したからといって、なにか変わったのだろうか。
いい子ちゃんが育っただろうか。
実際には、なんら影響はないというのが答えじゃないだろうか。

確かに規制は必要な場面もあるだろう。
けれどもその規制というものに対して反論できなさすぎるのがダメなのだ。
また公表もされないから、視聴者が知らず知らずのうちになし崩しに決まってしまっている。
そりゃこちらは民放の番組に関して無料で観ているけど、提供されたものを黙ってみてろというのでは、表現そのものがつまらないものになると考える。