表現の自由に留意しながらも法規制は必要。憎しみの連鎖をこれ以上増幅させてはならない。
「ヘイトスピーチ 23議会が意見書可決 NHKニュース」 http://t.co/6dB3gNlXTK
— 松田公太 (@matsudakouta) 2015, 1月 13
ヘイトスピーチをする側の憎しみというのは、中国や朝鮮だけに向けられているのではない。
たまたま憎悪を向けやすかったのが、中国や朝鮮だったのだ。
社会に生きる上でたまりにたまった憎悪がヘイトスピーチとしてあらわれたのだ。
法規制しました、じゃあこれでチャンチャンで終わるかといったらそれは違う。
法規制というのはしょせん臭い物に蓋をしただけではないだろうか。
ポリバケツに臭い物を入れて蓋をしたはいいが、中で発酵してガスがたまって爆発するかもしれない。
ヘイトスピーチを発する人間は差別者で、個人の資質の問題あるということにして終わらせたら、きっとまた違ったところで爆発する。
差別そのものは人間ふつうにするものだから。
社会全体が、抑圧されている人間をなるべく作らないように、助け合いの精神と公共心を持たなければ、違った方向の暴力的な差別者を生むだろう。
そして差別者というのは、ふだんは本当にナイーブだったりする。
いつだったか、Twitterで在特会の会長だった桜井誠氏に苦言を呈したことがあった。
たしかそんな根拠のないようなデマを飛ばすなみたいなことだったか。
一言目にはなにも返事を返さなかったので、もう一言つけ加えたらブロックされてしまった。
それで感じたのは、実はこの人は打たれ弱いのだなということだった。
差別心を標榜する人って、えてしてそういうものなのである。
インターネットでわれわれは気軽に、考えていることを発信できるようになった。
それまでは抑圧されたものを抱えるしか無かった。
文明の利器を使って、とにかくはき出せるものはなんでもはき出せるようにはなった。
でもわれわれはそのはき出されたものがどういうものなのかはまだわからないでいる。
それをどういうものなのか、すこしでも考えなければ、また大きな差別的なムーブメントは生まれてくるだろう。
もちろんまだヘイトスピーチそのものの問題は終わっていないし。
なんかこんどはお年寄りが標的になるのではないかと心配している。
なんで寝たきりの老人に俺らの払った年金が使われるのだ!
役に立たない寝たきり老人は安楽死させろ!
みたいな感じで。
そこは人としての矜持に期待しているけど。