KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ごはんの記憶

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                            minne

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正直いって、自分は性格がよくないです。
かなりだらしがないのです。
また、相手がきらいなわけでもないのに、なにげなく怒らせるようなことを言ったりもします。
かんしゃく持ちでもあります。

ときどき考えるのですが、幼少期から思春期に、ちゃんとした食事をとらなかったひとは性格がわるくなるのではないでしょうか。
かくいう小生も、成長していくにつれて、母親から食事をつくってもらう機会が少なくなりました。
うちは共働きというのもあったのですが、母親は家事を放棄しているつもりはなく、おそらく疲れてめんどうくさくなっていたのだと考えられます。

いつも小銭をもらって、よるごはんを食べにいったり、買いにいっていました。
食べたいものを食べていました。
栄養のバランスなんて、考えていません。
そういう家庭って、うちだけではないのかもしれませんが。

別にそれで親をうらんでいるとか、そういうことはむかしもいまもありません。
ただひとつひっかかっていることがあります。
小生には、2つ下の弟がいました。
弟は34のとき、ひとりぐらしをしていたアパートで、寝ているときに息をひきとりました。

弟もやはり小生とおなじような食生活をしていました。
食べたいものを買って食べていたのです。
アパートに掃除と遺品の整理をしにいったとき、ある光景を目にしました。
ゆかにカップラーメンやコンビニ弁当の空容器がたくさん転がっていたのです。

いろんな意味で孤独死です。
もっと連絡とって、たまにはメシでもいっしょに食べにいけばよかったのです。
救いだったのは、弟は小生よりも性格がよかったので、心配した人が様子をみにきてくれたことです。
おかげで、きれいなまま再会することができました。

現在でも食生活はちゃんとはしていませんが、ふとしたときに、このときのことを思い出すのです。
やはりごはんは大事ですし、たまにはだれかといっしょに食べたほうがいいと考えます。
もちろん栄養バランスも大事ですけど。
食事って孤独でないことを再確認するためにも、あると思います。