KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ビートたけしの限界

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いま話題となっている、8.6秒バズーカーというコンビの「ラッスンゴレライ」はみなさんもご存知でしょう。とか書いておいて、小生はほんとうに最近まで知りませんでした。ブームってどこで作られているのでしょうか。とまどうことばかりですが、このあいだようやくテレビで観ることができまして、リズムネタというのは確認できました。
番組には今が旬のお笑いコンビら多数が集結。8・6は中盤で登場した。
おなじみの赤い服で登場し、「ラッスンゴレライ」とブレークしたネタを披露。
黙って見ていたたけしだったが、始まって約30秒で幕が下りるボタンを押し、ネタを終了させた。  

たけしは「バカ大学の文化祭じゃないんだから」と手厳しく批判。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150308-00000112-dal-ent
なんかこの手の記事を読むたんびに、ビートたけしという存在の限界を感じてしまうのです。発言にたいする周りの乗っかりかたというところで。呼びつけにすると、また義憤にかられて、怒るひとがでてきそうなので、以降は世界の北野武と呼称させてもらいます。

発言じたいは、いつもの世界の北野武そのまんまです。むかしから変わらぬ、鋭い切れ味があります。しかし、いかんせん権威になりすぎてしまい、高みから見下したいにんげんの、便利なツールになっているのです。相手は結成1年ほどのコンビなのですから、このご時世と己の影響力も考えて発言しなさいなというのが正直な感想です。

まがりなりにも言われたほうは発言権のない新人なのですから。そもそも、「ラッスンゴレライ」が流行したのだって、制作側が安くて使いまわせる”一発屋”として使おうという考えあってのことでしょう。で、また新しいのがでてきたら、ポイ捨てです。実力がなかったからとか以前の話なのであります。

だからこそ、世界の北野が、「ラッスンゴレライ」に毒づくと、権力のある側からの、単なる無礼討ちになってしまうのです。それだけではなく、一般の側からの遠慮なき揶揄や嘲笑をよびこみ、芸人にたいしてはなにを言っても許されるという免罪符にもなってしまうのです。

世界の北野武は大きな存在であります。だからこそ、そこに限界が生まれてしまうのです。