KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

紙の本いらないってひとってうすっぺらい




電子書籍を礼賛するひとのいきおいはすごい。もはや紙の本を読んでいるにんげんはもはやにんげんでないというぐらいに。まあほんとうににんげんあつかいされなくても、きっと紙の本は死ぬまで読みつづけるだろうけど。それにおそらく、死ぬまで紙の本は出版されつづけるもんだとおもっている。


なんで紙の本をいらないというひとがうすっぺらいか。それはそもそも電子書籍じたいがうすっぺらいからだ。それはまさに二次元的であるからだ。平面的な活用方法しかできないのだ。そういう意味で電子書籍礼賛派はうすっぺらい。べつにさげすみの意味はない。


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ちなみにこれは部屋にある本の一部である。未来の子どもから「ファーwwwwww」というふうに笑われることうけあいである。おもにここは梅棹忠夫先生と加藤秀俊先生の著作集が入っている。あと昭和20年代後半の暮らしの手帳が数冊と、なぜかろくでなし子さんの本が入っている。


こうやってならべることで、本の題名を俯瞰的にみて、参考にするものをさがす。これはまさに三次元のやりかただとおもう。電子書籍でもやれないことはないだろうが、きっとやりにくいのではないだろうか。ながめて、手にとって、パラパラめくる。こういう使い方ができるので、紙の本のほうが便利だ。


それに蛍光ペンで線を引くことで、大事なところをピックアップできるのも紙の本の利点だ。電子書籍でもピックアップできるのかもしれないが、蛍光ペンでサッと線を引く手軽さにはかなわない。新書本に関していえば、ページを折り曲げたりするし。


ただ右から左に目で追うだけなら、電子書籍でこと足りるのだけれども、欲しい知識をストックしておくという意味では紙の本が便利だとかんがえている。 マンガに関しては、かさばるから電子書籍がいいかもしれないが、小生は読まないので。


本屋にかんしても、やはり並べてある本を、俯瞰でみて、未知の領域を発見し、あたらしく興味をもつという楽しみがあるので、きびしいことはきびしいが、なくなりはしない。電子書籍と紙の本が共存することはあっても。