前衛アングラ芸人・きぐるいツネちゃん(明智半平太)のブログ「昭和50年代少年のKOTOBASM」

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

少年の「守られる権威」と戦え







開星高校野球部監督の野々村直通さんが、夕刊フジでこんなことを書いていた。
長年、教育現場を経験した私に言わせてもらえば、「いじめ」の本質はいじめる側にあるのである。いじめるヤツがいなくなれば、「いじめ」は無くなるのだ。どの報道をみてもその元凶となる「いじめたヤツ」の姿は浮かんでこない。
少年という「守られる権威」に遠慮もあるのか、「いじめたヤツ」への言及はついぞ聞かれない。 

(中略)

 私が担任であれば徹底的にいじめを憎み、加害者を見つけ出して懲らしめる。真に良心に従い改心するまでたたきのめす。そのことが「人の道」であり、「正義」であるはずだ。そんな視点からも語られる教育界になることを希望している。
「いじめ」の本質は、いじめる側にもいじめられる側にもあると小生なんかはおもっているのだが、「守られる権威」云々に関してはよくぞ言ってくれたというかんじだ。尾木ママの一連の学校”だけ”たたきに辟易していたので余計にそうおもう。


もういちど確認しておくが、学校の責任は大きい。けれども”いじめたヤツへの言及”そして、”いじめられるヤツ”にもなにか原因があったのかもしれないという多角的な見方をしないと、解決の方向へすすまない。それほどイジメというものは根深いのだ。


こういうことを書くと、いじめられる方に原因があったらいじめていいのかというヒトがいるのだが、いじめていいはずがない。あたりまえだそんなの。おまえはそのレベルから話をしないといけないのかと言いたいわ。


いじめられる側の人間の原因をきちんと分析しないと、ただいじめる側が悪だといって処罰しても、けっきょくそれは教育にならない。そこが野々村先生と小生のちがいなのだけれども。有無をいわさずいじめるヤツを処罰してもいじめる側の教育にはならない。


なぜイジメに至ったのかというのを、大人と子どもがいっしょになって考えないと解決にはならないから。そのためには、いじめられる側にどういういじめられる要素があったのかというのもいじめる側に傾聴しないとダメなのだ。


こういう根深いテーマに、誰が100%悪いなんていうことはない。