曽野綾子氏、またしても安定の老害ぶり:岩手県矢巾町・中2いじめ自殺事件、文部科学省(週刊ポスト(2015/09/18), 頁:68)からの引用「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまったのである」。貴方こそ「分際」をふまえては如何?
— 斎藤環 (@pentaxxx) 2015, 9月 7
まあいくらなんでもこれだけでは、曽野綾子の真意ははかりかねるのだけれども。全体の文章を読まなくてはとおもっている。しかしいちばん最初にこの文章を読んだときにおもったのは、まあ曽野綾子ならこれぐらいのことは言ってもおかしくないということであった。
基本的にこのひとに、自殺した生徒の気持ちを考えろといったってどだい無理なのだ。金持ちの家に一人娘としてうまれて、 労働なんてほとんどしたこともなく、文壇に出てきて保守的なにんげんたちにチヤホヤされてきたのだもの。
暗い記憶なんて、だれしもが多かれ少なかれ持っている。またいじめに加担して相手が自殺した。それにたいして重い十字架を背負うことははたして悪い人生なのか。いじめに加担したことを忘却してしまうことのほうがよっぽど悪影響だとおもうのだが。
そもそも死んでしまった生徒にいじめる側とかないだろう。いじめる行為というのは、なにかしら利益をもとめるから発生するのだ。生きつづけるから利益を得られるのであって、死んでしまったら利益なんてものはぜったいに享受できない。
だいたい夫の三浦朱門もふくめて、この夫婦はしょせん、いじめられっ子という存在を、エリートが成長するための踏み台にしかおもっていないのである。 だからいじめられっ子が自殺して、エリート候補たちの足かせになってしまうことが許せないのである。