タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。

ベッキーやショーンKの報じられ方を観て感じること

 ベッキーの不倫騒動、そしてショーンKの経歴詐称報道に共通すること。それは社会に対してさほど迷惑をかけていないということだ。倫理的には問題はあったかもしれないが、ではそれで多くのヒトが被害をこうむったのかというとそうではない。

 むしろそこで考えてしまうのが、どこまで制裁が加えられ、われわれ大衆が糾弾できるのか。それこそとことんまでやらなければいけないのか。それともどこかで歯止めをかけるべきではないのか、ということである。もちろんそんなもの自体が下らないと考えるヒトもいるであろう。 

 しかしそれまで積みあげてきたものをぶち壊し、再起不能にするというのは、考えてみたらとても怖いことである。そしてまた怖いのは、週刊文春を中心としたメディアを批判できなくなっているということだ。本当に週刊文春は純粋に正義なのか。

 なにごとにおいても正義という言葉そのものが胡散臭いと考えているのだ。だから各メディアを通して週刊文春になにも言えなくなっていることに、かなりの危機感を感じる。そこまで書いたら人格攻撃だろうと感じることがしばしばあるから。

 よく公人なのだからという、報じる側の自由を主張する言い分があるが、相手が公人であっても、事実を伝えることと、捏造や人格攻撃、不確定なことを報じることとをごちゃまぜにして総じて自由といってはいけない。だからこそ、週刊文春を疑う目を持ち続けないといけない。