ひとつは無意識に差別するひと。
もうひとつは、意識して差別するひとです。
意識して差別するひとというのは、意図をもっており、場合によっては無意識に差別するひとを作りだしコントロールしようともくろむものです。
この手の報道は、曽野綾子氏の書いた全文の中の一部分だけを切り取って反応するのが常なのだが、それを真に受けて、これまた騒ぎ出す連中までいる。
曽野綾子への批判のバカバカしさ
作家の曽野綾子氏が発表した、新聞のコラムがいま問題になっています。
なにを書いたのかは、上の引用文にあるリンクをクリックしていただければ全文が掲載されています。
リンク先のブログを書いたのは、現役の市議会議員さんであるというところも、あたまにいれて読んでください。
一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている。
特に高齢者の介護のための人出を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
【曽野綾子氏のコラムより引用】
これに対し、市議会議員さんはこう書いています。
Twitterを見ていると、「曽野綾子は介護の仕事を馬鹿にしている」という内容のものもあったが、これも曲解が過ぎるというものだろう。
要するに、「専門的介護知識・技能を持っている人に介護の全てを委ねるから、介護職は過酷なものとなるのだ。
孫が祖父母を見るような部分については、むしろ積極的に外国人労働者を導入して、専門的介護知識を持っている人々の負担を減らすべきだ」と主張しているに過ぎない。
小生はこの文を読んで、率直にこれも曲解だなあと感じました。
曽野氏に肩入れする目的で、あとからとってつけたような解釈をつけただけです。
「 高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くない」
この文章からして、介護のしごとは知識のないものでもできると言っているのはあきらかです。
じゃあ百歩譲りましょうわざと。
曽野氏にしても、市議会議員さんにしても、介護のしごとは低賃金だというのは知っているはずです。もし、”孫が祖父母を観るような部分”だけを外国人労働者にやらせるなら、”専門的介護知識を持っている人々”より賃金はおのずと安くなるはずです。
そのような賃金で、外国人労働者が、日本で生活ができるでしょうか。
祖国で貧しいくらしをしている家族に仕送りできるでしょうか。
外国人労働者が、日本で介護のしごとをすることについて、見通しが甘いのです。
そして介護のしごとをしている者にたいする見識も甘いのですお二方とも。
介護の仕事なんてだれでもできると思っているから、賃金のことまで言及できないのです。
曽野綾子というひとは、大型の台風がやってきたときに、
「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠るのが当然。弁当なども配る必要はない。天気予報があるのだから、健常者は食糧寝具くらい持って早めに避難所に来るのが普通」
とコラムに書いたり、新潟で大地震が起きたときに、
「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」
などと自分は大地震を体験したこともないのに、そういう発言をする。
自然災害で心身ともに弱っているひとにたいしての思いやりがないひとでもあります。
こういうひとを、いくら他人が肩入れしてかばっても、 鼻白むのです小生は。
ちなみにアパルトヘイトを称揚していないと発言したそうですが、これから先も、差別はしないとは決して言わないと思います。
意識して差別するひとだからです。
そして無意識に差別するひとを生みだして、コントロールするため、マスメディアを使って発言しているのです。